分断と修復と想像

戦争で大怪我をした子供の映像を見たりや環境問題について考えるとき、すこしだけ考えれば誰でも気づくことがある。
それが自分に関係のないとこで起こっているのではないということを感じる。
自分が部屋で飯を食いながらビールを飲んでテレビを見ていることがめぐりめぐって知らない国の人が殺される原因になっているのかもしれない。北国の氷山が崩れる原因が自分のせいかもしれない。寒くない冬は自分の生活のせいかもしれない。
こんなことを細かく考えると、きっと何もできなくなるだろう。
牛丼を注文することも、あたらしいCDを買う事も、遠くにいくことも、飯を食う事も、息をすることだってできなくなるだろう。

こんなことを考えていて、ふと思った。
世の中で起こっていることと自分の関係を考える事から信仰が生まれてるのかな。と思った。
浅学なのですべて思っただけのことだけど、こう思った。

世界中で起こっている悲しい出来事が自分のせいだと思う気持ちから、自分は生まれながらにして罪を背負っているという考え方が生まれて、贖罪のために生きる宗教がある。
自分と他の物の関係性を考え、突き詰めて行くと自分と他者、それは生きている、生きていないを区別せず、現象や大気など全てに宿っている精神は唯一一つだと考える宗教がある。
全ての生きものは生まれ変わる。そして前世で関係を持ったものとは次の生でも関係を持ちっている。だからいま食卓に乗っている牛肉がかつて自分の親兄弟であったかもしれないと考える。突き詰めて考えると全ての生命がかつては自分であり、または未来の自分であると考える宗教がある。
この3つは今3大宗教といわれているものだけれど、それ以前はどうだったか。
きっとそれ以前も同じようなものだと思う。
山で獲物が取れなかった理由や、災害が起きて犠牲がでた理由を自分と関係があると考え、自然や、または獲物に対して感謝や償いの気持ちを表し、自分達が思い上がらないようにするため、また考えすぎて何もできなくなってしまわないように(「言い訳」を決めるため)にも儀式を行ったりしたのだろう。

そんなことを風呂で考えていたら、その長湯のせいでどこかでだれかが困っているのかも…とも思ってしまった。